【検証】 相撲の強さの秘密とは? 体格の視点から

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プロローグ

 その日国技館はほぼ満員だった。
 場内は観客の興奮と熱気であふれんばかりになっている。
 ただの相撲の一戦ではない。

 1916年(大正五年)5月場所8日目。
 観客は土俵上で作られる歴史を見に来ていたのだ。

 大勢の期待と歓声を一身に浴びていたのは太刀山
 休場を含めながらも、西ノ山に負けた一敗を除けば実に五十六連勝。八場所連続で土に付かなかった記録になる。
 また西ノ山との取り組みに関しても「あれは勝ちを譲ってやったんだ」と意味深な発言をしており、もしそれが事実ならば既に百連勝を超えている。
 江戸の伝説的な力士の雷電や谷風、明治の梅ケ谷でさえ百連勝は達成していない。

 また五十六連勝だとしても記録に残る数字である。

 いったいどこまでこの連勝は続くのか。
 観客は歴史的な一瞬を目のあたりにできる幸せを味わっていた。

 土俵で対峙するは新進気鋭の栃木山
 優良な成績で入幕を果たした若手ながら、経験ではまだ劣る新小結である。

 行事の掛け声とともに軍配が上がる。
 栃木山が一足に入り込む。突き押しを得意とする太刀山は先に右を差された。
 しかし187cm、140kgの巨体を活かし、逆に栃木山に揺さぶりをかける。
 そのまま振り捨てようとするも逆に栃木山が左も差してくる。もろ差しでもみ合いになった。

 どよめきが起きたのは次の瞬間である。
 もつれた状態で押しあいとなり、競り合いの末に寄り出されたのは太刀山であった。
 土俵の内側で勝ちを踏みしめているのは栃木山

 奇跡の大横綱のあっけない陥落であった。


 一瞬の茫然自失から覚めると場内は大混乱。
 怒号と座布団が乱れ飛び、勝者の栃木山には祝儀の雨が降った。

 国技館の外でも騒ぎは飛び火し、東京中で号外が配られたという。

 伝説に残る連勝の阻止と、巨体と怪力で最強を謳われる横綱の四年ぶりの黒星。相撲史に残る大事件であったが、それだけではなかった。

 相手の栃木山にも意外性があったのだ。

 当時の栃木山は身長172cm、体重は103kg。
 一般人としてもさほど巨漢ではない。そのせいか入門当初は親方にもあまり期待されてない人材だったのだ。

 この小結ほやほやで平凡な体格の新人が、五年間で一敗の神がかり的な横綱を倒したのである。

 ただの勝利ではなかった。

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強さを決定するもの

 相撲。
 今や世界的な知名度があり代表的な日本のスポーツ扱いになっている。
 この相撲の一般的なイメージというと何があるだろうか?

 風変わりな儀式、古風な衣装、独特の立ち会いなど様々だろうが、まず筆頭に来るのが「巨体の男たち」だろう。

 半裸なせいもあるが、数あるスポーツで相撲ほど競技者の肉体が目立つものはない。

 昭和になり時代が下るにつれ大柄な傾向は強まった。
 これは平均身長の伸びと新弟子検査の制度が確立したためであり、力士は最低でも173cm、75㎏以上が条件となったのだ。原則的にこの基準をクリアしなければならなかった。

 また「伝統の国技」が強調される割には外国人力士にも寛容であり、選りすぐりの体格や運動能力を持つ外国人が招聘され、土俵をにぎわせている。
 その外国人力士が活躍すると話題になったのが体格だった。

 一時代を築いた曙、小錦武蔵丸などは、成績だけでなく体格でも目立ち、身体的な記録も残している。こうしたことは相撲における「体格」の印象を更に強めた。

 実際に肉弾の戦いである。狭い土俵で身体をぶつけあう。素手の格闘技であり、頼るものは自分の身体のみだ。雲をつくような大男だったらそれだけで有利になりそうだ。

 「強い力士は大柄」。
 一般的にもそうしたイメージが持たれているのではないだろうか。

 相撲における強さを探っていくと必ず「体格」の問題は切り離せない。広い意味での体格が相撲における強さを決定しているのだろうか?
 身体の大小が力士の強さを決める原因か。


 実際に現場を探っていくと意外な結果が得られた。


歴代巨漢力士の身長

 相撲の歴史は長くそれこそ神話時代から続いている。
 勝敗記録だけでなく身体的なデータもそれなりに蓄積されているのである。
 伝説的な力士だと手や靴のサイズまで残るものがあるが、ここではまず身長と体重に注目してみたい。
(身長と体重は多少増減する。平均的なものや公式記録の数字を取った)

 まず相撲史上で最も身長が高かったとされるのは「明石志賀之助」である。相撲協会が初代の横綱に認定している力士だが、なんと身長は251cmである。
 今ならギネスブックに載りそうな超人だが、さすがにこれには疑問符がつく。実在はともかく身長の確証が無いのだ。

 明石志賀之助より古くなると更に記録の信ぴょう性が怪しくなる。軍記物や講談と同じで伝説と誇張に彩られていているためだ。
 時をさかのぼるほど実在そのものも疑わしくなる。記録として扱えるかは不明である。

 そこでここでは二百年超える江戸時代以降で、相撲以外の資料などでも実在が確かなものをとりあげたい。
 高身長で名を残した力士を簡単に並べる。

嘉永年間の生月鯨太左衛門 230cm(235cm説も)

天保年間の大空武左衛門 227cm

寛永年間の第36代大関、釋迦ヶ嶽雲右エ門 226cm

・文政年間の龍門好五郎 226cm

寛永年間の鬼勝象之助 221cm

天保年間の鈴鹿山鬼一郎 214cm

天明年間の九紋竜清吉 208cm


どれも2メートルを超えている。
こうした力士は富岡八幡宮などに「巨人力士身長碑」や手形が残され、他の資料でも実在が窺える。

身長の数字の正確さについて議論の余地はあっても、架空の人物では無い。

幕末から現代にかけては以下のようになる。

・不動岩三男 214cm
双葉山の露払いを担当し、蔵前国技館の幕の房は不動岩の頭にあたらないように長さが決定したとされる。

・白真弓肥太郎右衛門 210cm

ペリー来航時に親善の歓待をして、米八俵を担いで賞賛を浴びた。

・武蔵潟伊之助 209cm
元は炭焼きの仕事をしていたのを巨体を買われて相撲に入ったという。

白頭山福童 208cm
引退後は長身を活かして兵隊の格好で菓子屋の客寄せもしていたという。

・出羽ヶ嶽文治郎 207cm
数々の対戦相手を怪我に追い込んで恐れられ、昭和の力士として富岡八幡宮碑に残る。

・曙 204cm
ご存知貴乃花との名勝負でも名を残した。

・大内山平吉 203cm
土俵の屋根の房に頭が当たるので高さが変更されたという。

琴欧州 203cm 
最近の力士では一番大きいと言われていた。


また2メートルに達しなくても

双羽黒(199cm)、把瑠都(199)、大飛翔(198)大砲(197)、貴ノ浪 (197)、琴若 (196) 若ノ鵬(195)、太刀光(195)、露鵬(195)、栃乃若(195)、大起オオダチ (194) 水戸泉 (194) 魁聖(193) 男女ノ川(193)

なども高身長であった。

この辺りだと一般的観点からすると超大型である。横綱や有名力士も入っている。

過去の外国人力士ではハワイ・太平洋系の人がよく目立っていたが、曙の204cmをはじめ、巨体で広く知られた小錦(身長は187cmで、体重は275kgと史上最重量)、横綱武蔵丸(192cm、237kg)なども大柄力士である。

こうして検証していくとやはり大柄力士は目立っている。

冒頭にあげた栃木山は例外であって、やはり巨漢であることが最重要だろうか?
力士の強さは、体格に裏打ちされねばならないのだろうか?

ここでは逆の例から辿ってみたい。

第二検査出身の力士たち

 新弟子検査が確立されると一定の基準の体格は確保できても、当然規定に足りずに合格できない者も出てくる。
(検査の基準は何度か改正されたが、戦後の最低基準は身長173〜176以上、体重71〜79以上を推移し、今では年齢を問わず173cm、75kg以上に確定)
 170cmの舞の海が身長を稼ぐために頭にシリコンを埋め込んだ話は有名である。

 近年では外科的な手術などは危険でもあるし、熱意ある志願者に門戸を開くために2001年度から第二検査制度が設けられている(最低基準は身長167cm、体重67kg以上)。これによって運動能力などに秀でていれば、第一検査に不合格でも入門可能になった。

 第二検査基準の体格だとほとんど一般人とも変わらなくなってくるし、自分の方が大きい位だという人も居るだろう。

 ただここで疑問も湧いてくる。
 仮に「体格」が重要であるならば、小柄な人たちは入門できてもやっていけるのだろうか? 現代の大型力士に混じって実力を発揮せねばならないのだ。

 意欲があっても体格的なハンディがあると苦しいはずである。

 しかしこの2001年に新設された第二検査制度、前途多難で見込みがないかというと、そうでもない。

 なんと現在(2014年)で既に「関取(十両以上の力士)」も輩出しているのである。





小柄な暴れん坊たち

 磋牙司は1981年生まれの31歳。まだまだ現役として脂がのっている。
 子供の頃からの相撲好きで、中学高校と全国大会で優勝し学生横綱になった経験もある。
 同期にはその頃明徳義塾に在校していた朝青龍琴奨菊もいる。

 ただ身長があまり伸びず、入門時は第二検査規定のぎりぎり167cmだった(現在は公称166㎝)。
 入門してからは怪我に悩まされたものの、順調に幕下、十両と昇進していき2010年には入幕を遂げた。

 足の負傷による十両陥落、再入幕を繰り返しつつも、最高位は西前頭の九枚目まで上ったのである。幕下と十両でそれぞれ一回ずつ優勝も 果たしている。

 第二検査出身の中でも身長は低い方だが、それでもこれだけはやっている。

 磋牙司と大して変わらない身長の力士には豊ノ島もいる。168cmだが存在感は大きい。
 小柄でありながら、胸からまっこうぶつかり合う闘志あふれるスタイルだ。
 精神面も強く粘り腰に定評がある。

 序の口から十両まで何度も優勝を重ね、入幕を遂げてからも殊勲、敢闘、技能の三賞を九回も受賞した。
 実に最高位は関脇にまで達した。
 上位陣相手には苦労したものの、まったく刃が立たなかったわけではない。

 例えば横綱白鵬が初めて金星を渡したのは豊ノ島である。また日馬富士も二度にわたって金星を奪われている。
 また幕内で得意としている相手は、先ほど最高身長で名をあげた琴欧州である。十両時代から何度も土につかせるほど相性が良い。

 他にも琴光喜鶴竜など大関クラスも撃破した有力関脇であって、小兵でも目立った有望株であった。

 他にも173cmの益荒海(最高位、西十両5枚目)、174cmの鳰の湖(最高位、西前頭16枚目)なども活躍している。

 まだ短い歴史ながらこれだけの人物を輩出しているのだ。むしろ前途は洋洋としており将来的にも大いに期待がもてそうである。


昔から居た小柄な華

 実は第二検査出身以外にも制限身長ぎりぎりの力士はそれなりに見られていたのだ。

 舞の海は小結まで行ったが、175cmの維新力は闘志あふれる相撲で幕下時代の曙や若乃花にも勝利し、一時西十両筆頭まで上った(現在はプロレスに転向)。

 常ノ山も新弟子検査の時には175cmで体重が75kgしかなかったという。そこで事前にたらふくご飯と水を詰め込み、まわしに鉛を仕込むという裏技で突破した。

 入門時は身長体重ともに不足気味で苦労したものの、順調に出世を重ねて一時は東前頭2枚目にまでのぼった。つまり前頭でも筆頭に近い三役相当の地位である。
技能賞も2回を受けている。

 同じく身長が175cmだった鷲羽山北瀬海などもともに関脇にまで昇進し、三賞と優勝の経験者だ。

 意外にそこまで身長がなくても力士としては強者なのである。

出世した小兵力士は例外か?

 ここで疑問に思う人もいるかもしれない。

「確かにその人たちは結果を残しているけど例外じゃ? それにあまり上位にはいけてないじゃないか」

 などと。

 ここで二人の例をあげよう。
 現在は年寄りとして審判委員長などを務める朝日山親方。
 現役時代の大受関である。

 中学時代に相撲部屋に誘われて入門し、長い相撲歴を誇る。
 若い時には思うように身長が伸びず、新弟子検査も突破できるか危うい状態であった。

 兄弟子や周囲と相談した結果、頭にシリコンを埋め込むという前代未聞の突破口を考えた出した(舞の海のやり方はこの大受に習ったもの)。
 結果として現役時代は177cmまで伸びたが、それでもあまり長身ではない。

 だが逆に成績は伸びに伸びた。
 徹底した押し相撲のスタイルで次々に昇進をものにし、最後は大関にまで到達したのである。

 幕内では名横綱大鵬を破るという金星をあげ、上位キラーとして名をとどろかせた。殊勲賞を4回、敢闘賞1回、技能賞6回獲得している。
 大関時代は怪我に見舞われて思うような相撲がとれず、五場所で陥落したものの力士としては立派な成績である。

 もう一人が旭国だ。
 現役時は174cm。こちらも体格だけ見ればプロの力士としてやっていけるか危ぶまれるレベルだ。

 実際に新弟子検査に四回も挑戦しては不合格になり、しまいには髷をカチカチに盛り上げ、兄弟子に頭を殴ってもらってこぶを作り、検査係にお目こぼししてもらって合格したというエピソードがある。

 それでも入門してからは抜群の冴えをみせた。
 闘志あふれるしつこい取り組みで「ピラニア」とのあだ名を取り、幕下や十両で優勝を飾った。

 酒の飲みすぎですい臓の故障に苦しみながらも、「闘魂」という言葉を好み、熱の入った相撲は大関の地位をももたらした。
 一時は上位力士の間で最高優勝争いにも参加するほどで、綱取りにも期待がかかったが、惜しくもそこまでは及ばなかった。

 それでも両者とも大関まで務め上げるという立派な成績を誇る。
 並の力士では到達できる地位ではないのである。


 考えてみよう。
 確かに今まであげた小兵力士には「平幕」程度も多い。しかし「全体」を見てみればいい。

 相撲取りの総数は時代によって増減があるが、前相撲は抜きにしても幕内、十両、幕下、三段目、序二段、序の口の全てを合わせて千人を超えることもある。

 最近は相撲人気に陰りが出て減少傾向だが、それでも700人近くの数字はキープされている。

 プロ力士の各ステージで一人前に扱われるのは「十両」からである。それ以下は「力士養成員」扱いとなる。

 「十両」は元は「幕下」に含まれていたが、明治の給料制の導入とともに上位十人が独立して成立した。いわば準幕内である。

 十両力士になると手当て以外にもかなりの額の月給と退職金がもらえ、「○○関」と正式に呼ばれるようになる。
 年寄りを襲名する資格も発生してくるし、いわば十両からが一人前の「関取」である。

 ひるがえって力士全体でどこまでが十両・幕内に到達できるか。

 時代によって増減はあるが、幕内の定員は四十人前後、十両は三十人前後である。
 幕内と十両を合わせても全体の一割もいかない。

 つまり十両になった時点で、相撲界ではそこそこエリートでありピラミッドの頂点近くなのである。

 ここであげた小兵力士たちは、たとえ横綱大関クラスでなくても頂点近くに達している事実を忘れてはならないだろう。
 彼らよりはるかに身体的に恵まれながら脱落する者も大勢いるのである。

↓以下その二に続く

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