【メモ】世界的企業の創業者の共通点

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最近はやれグローバルだの、世界がどうこうという声がかまびすしい。
企業経営に関しても世界的なトピックを持ち出すのが流行である。

では世界的な企業とはどんなものだろう?
世に成功した巨大企業はふんだんにあるが、「世界的な企業」レベルのもの……

すぐに名前が浮かんだのは以下の企業だ。

マクドナルド、スターバックスケンタッキーフライドチキンコカ・コーラ

世界中どこに行っても見かけるし、反米やアンチグローバル企業みたいな人でも代表的な世界企業と認めるだろう。誰でも知ってる。

スターバックスなど必ずといっていいほど反企業的な政治活動の攻撃対象になってるし、
マクドナルドに至っては「ビックマック指数(世界各国の通貨レートを計る指標)」という言葉まで生まれているほどだ。

普通の人はサラリーマンをやるだけでも大変なのだ。こうした世界的な企業を創るのは容易ではない。

果たしてその途方もないことを実現した創業者たちは、何か非凡なところがあったのだろうか? それこそ一般人とは異なるような・・?


この四つの企業を創った創業者たち

マクドナルド=レイ・クロック

スターバックスハワード・シュルツ

ケンタッキーフライドチキン=ハーランド・サンダース(いわゆるカーネル・サンダース

コカ・コーラジョン・ペンバートン(コーラの原液開発)、エイサ・キャンドラー(コーラの権利買い取って事業化)


実は彼らには面白い共通点がある。それは一般的な成功者のイメージにも反する所もあるので記しておきたい。

◇◇◇

☆事業はオリジナルのアイデアとはいえない

ハワード・シュルツ
→地方の凝った高級コーヒー豆販売店を買い取り、イタリアのカフェのやり方を模倣して発展させる。

レイ・クロック
フランチャイズ権利を買って店を発展させ、最終的に元の店も買い取った。

コカ・コーラ
→原液の開発者ペンバートンは、当時ヨーロッパで流行していた薬用酒を参考にコカイン成分も添加して作成。有体に言えば「パクった」。(最初の名前は「フレンチ・ワイン・アンド・コカ」)

薬品の販売業者のキャンドラーは、現地でそこそこ売れていたコーラの権利を買い取り、
ソフトドリンクとして発展させ、広告戦略も使って大成功。
(今のコカコーラはキャンドラーから会社を買収して開始されたもの。更にオリジナル性は乏しい)

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ケンタッキーフライドチキンだけは、サンダースが独自に発見したとされる。
伝説では子供時代に鶏肉をカリカリに焼いて皆に振舞ったら非常に好評で、サンダースはその時の経験を大人になるまで覚えていた。
それを開業する時に再びやってみたと。

どこまで事実か分からないが、本当なら子供でもできる程度のものなわけである。
抜群に凄いオリジナル性があると言えるか難しい。


☆遅咲きも多い

それぞれの成功の元になった仕事を始めた年齢を見てみよう。

カーネル・サンダース
→40歳。物置を改造して軽食もできるKFCの元になるガソリンスタンド設立。

レイ・クロック
→52歳、胆嚢摘出と甲状腺手術した後。フランチャイズの権利を得てマクドナルドを設立。58歳でマクドナルド本体も買い取る。

コカ・コーラ
→ペンバートンが原液を開発したのは48歳。キャンドラーは37歳の時にコーラの権利を買い取り、41歳でコカコーラ設立。

ハワード・シュルツ
→29歳でスターバックスに転職。32歳でスターバックスから独立して元となるカフェを開く。34歳で母体のスターバックス買収。

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シュルツだけは割合若めである。それでも後の世界的な企業の創業者といえど、若い時に起業してすぐに大成功というわけではない。


☆必ずしも金持ち・上流階層出身ではない

カーネル・サンダース
6歳で父親を亡くし母子家庭。母が工場に勤めて家計を支える。
10歳から働きに出て農作業、大工、車掌など職を転々。学歴・資産無し。

レイ・クロック
父親が中卒サラリーマン、母は自宅でピアノ教室で日銭を稼ぐ家庭。
紙コップのセールスマン、バーのピアニスト、バンドのメンバーなどから
マルチミキサー(五種類のミルクセーキを一度に作れる)のセールスマン。

エイサ・キャンドラー
戦争で没落した商人の家。貧しい子供時代で大学にも行けなかった。

ハワード・シュルツ
NYの最貧困地帯の低所得者用の共同住宅で育つ。
両親は共に中卒で病院代やフットボールの制服を工面できないレベルの家計。

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コーラ発明のペンバートンだけは割合裕福な中流家庭だったようである。
大学に行ける余裕もあった。

スターバックスのシュルツは、住んでる所の名前を言っただけで軽侮される貧困地域だったそうである。自伝にも若い時に見下された屈辱のことを書いている。

要するにほぼ中〜下流であり、上流階級や大金持ちはほどんどいない。
言葉が悪いが今時に使われる底辺とか下層にあてはまることもあり、やはり人間は単純に階層で分けられない。

富裕層や東大家庭の再生産がメディアで特集されたこともあったが、人間の才能は単純な基準では見切れないとも言える。

途上国に残ってるような階級意識でガチガチにすると、世界に冠たる企業を築く人材も出現しなくなるかもしれない。



☆大して高学歴ではない

レイ・クロック→高校中退で世に出る。

カーネル・サンダース→小卒。今風に言えば義務教育だけ。

ハワード・シュルツ→ノーザンミシガン大学卒だが、フットボールのスポーツ推薦。

キャンドラー→高卒程度。十代で働きに出る。
(後に大学にいけるチャンスがあったそうだが、弟に譲った)

※原液開発のペンバートンは南部の医科大学を卒業してる。

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どの創業者もハーバードなどの名門や特別な教育を受ける学校にも通っていない。
どちらかといえば低学歴や叩き上げである。


☆独特の感性と行動力がある

成功のきっかけとなった一歩を見てみよう。

レイ・クロック
当時販売していたマルチミキサーを八台も使って大繁盛してる店があると聞いて興味を持つ。
わざわざ夜間飛行機に乗って現地訪問。マクドナルド兄弟と出会う。

そのハンバーガーショップの洗練された運営システム、店の清潔さ、ポテトやハンバーガーの味などに感心。フランチャイズ契約で自分も同じ店を始める。

カーネル・サンダース
子供の頃の料理の成功体験を覚えており、それを蘇らせて事業に応用。
事業に何度失敗してもあきらめず、売り込みも何百件も断られてもやるガッツがあった。

ハワード・シュルツ
雑貨店従業員時代、小さな珈琲豆販売会社が高価なコーヒーメーカーを大量に注文。
大口注文を不思議に思い、その遠方の店をわざわざ出かけてき、奥深いコーヒーの世界を教えられる。
感動して待遇が下がるにもかかわず転職した。

またイタリア訪問の際に現地のコーヒー文化とコミュニティに溶け込んだ姿勢に感心。
それらをアメリカの新しいコーヒーショップに結実させて成功。

・コカコーラ
ペンバートンは当時流行していた薬用酒の良さに着目。それを改良してコーラを考案。

キャンドラーはご当地レベルの流行に過ぎなかったコーラの良さに着目して買い取る。
それをさらに改良して宣伝とつなげ全国ナンバーワンレベルに。

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ここで注意すべきはインスピレーションを受けた対象は誰でも見ることができた点である。
隠されていない。同じものを見た人々は沢山いたのだ。

しかしその美点を評価し、自分の事業に取り入れたのはごく少数であった。

成功の元になるアイデアと出会ったのは偶然でも、創業者たちにはそれを評価し見逃していない。
そこから強い「意志」でもって経営につなげている。


☆若い時はあまりパッとしてない。

・レイ・クロック
高校中退してからはピアニスト、バンドのメンバー、紙コップのセールスマンなど転々とし、
マクドナルドを知る直前は事業の失敗で負債も抱えていた。

・サンダース
農場の労働者、大工、保険外交員、自動車修理工、タイヤのセールスマンなど40以上の職を転々。
若い時は年齢詐称して一年間キューバで兵役に就いたことも。
経営するガソリンスタンドが倒産したり、レストランが火事に見舞われたことも。

コカ・コーラ
ペンバートンは優れた薬剤師や化学者としての腕があったが、南北戦争で負傷してモルヒネ中毒。
モルヒネ代が工面できず、医薬代わりにコーラ酒を開発したのが始まり。

エイサ・キャンドラーは地方で薬の行商や販売を行ってたごくありふれた業者である。

ハワード・シュルツ
スポーツ推薦で大学入るも限界を感じて退部。
アルバイトしながら卒業するもやりたいことが見つからない。

ゼロックスワープロのセールスマンから初めて、スウェーデンの家具雑貨販売店アメリカ支社副社長。

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シュルツはそこそこ出世している。他も食べていける程度ならやれている。

しかし周りと比較してずば抜けて凄いとか、非凡なビジネス手腕や天才性を示していたとはいえない。
逆に前半生はあまりうだつがあだらなかったり、鳴かず飛ばずも多いのだ。


☆特に「グローバル」な教育などは受けていない

どの人間も名門大学や高名なビジネススクールにも通っていない。
また留学や幅広く世界を見るといった経験にも乏しい。

ただスターバックスのシュルツは低所得者用の共同住宅であったために、
子供時代は黒人やその他のマイノリティの貧しい子供が仲間でよく遊んだそうである。

サンダースは一年間キューバで兵役を務めているが、これは米軍中心なので果たしてグローバルな
視野を得たといえるか不明である。

レイ・クロックは第一次大戦でヨーロッパに出征する予定で訓練は受けていた。
サンダースと同じく年齢詐称による入営で衛生部隊で救急車の運転手として活動するはずが。
直前に戦争が終わってしまった(ちなみに同じ部隊にはあのウォルト・ディズニーが居たそうである)


つまりどれも世界に遊学して幅広く見聞を養ったなどの経験があるわけではない。
シュルツはイタリアへの出張がカフェ文化を知る大きな転機となったが、短期の旅行程度である。
この程度の経験がある人間はいくらでも居るだろう。


要はどの創業者も取り立てて国際的に豊かな視野があったわけではない。
結果としてグローバル企業になってるが、グローバル的なものが成功の要素かというと首を傾げる。

どの創業者もアイデアや成功のきっかけを自分の体験から得ている。
そしてそれはグローバル云々が問題になったのではない。

自分が本当に素晴らしいと思ったことや、価値をおけるものを見つけ出してきて事業につなげたのだ。





【検証】 相撲の強さの秘密とは? 体格の視点から その二

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その1からの続き

体重から見た力士

 それでは身長は決定的な要因とは言えないのだろうか?

 体格のもう一つの要素に「体重」もある。

 人によっては「身長より体重の方が重要だ」という意見もありそうである。

 確かに相撲という競技は相手を押し出すか、転ばして土につけねばならない。
 上背のあるなしより、重たい方が有利という主張は説得力がある。

 過去の巨漢の外国人力士の姿も思い出される。
 上背は並でも重戦車のような体格だと強そうな気がする。

 評論家にも背は低い方が重心が安定するいう説を唱える人もいる(筆者は柔道をやっていた経験があるが、上背が高い選手は背負い投げなどにもはまりやすい一面はあった。名選手が新人にうっかり背負いを決められる番狂わせも時折起きる)。

 相撲もまわしをつかみ相手の懐に入る。上背が高すぎるのも逆に不利益が出てくる可能性もあるかもしれない。

 しかしこの「体重」を詳細にたどって行っても面白い事実が浮かびあがるのである。
 相撲での歴代体重のベスト10をあげてみよう。

1位:小錦 285kg 
2位:大露羅 273kg 
3位:山本山 264kg
4位:須佐の湖 240kg
5位:曙 232kg 
6位:武蔵丸 231kg 
7位:魁ノ若 230kg
8位:秀ノ海 229kg
9位:萬華城 227kg
10位:豊ノ海225kg

 トップはその巨体で相撲の歴史に残る小錦。現役の時は「ダンプ」などと呼ばれて世界的に有名だった。
 冒頭で紹介したように曙や武蔵丸横綱としては歴代で最重量)の名前もある。

 こうした有名力士には記録に残るような重量があり、こうすると体重が死命を制する重要ファクターとする主張は説得力がある。

 特に上位三人に至ってはほぼ300kgなのだから怪物クラスである。素人はバーベルを60kg持ち上げるだけでもふうふう言ってるのに、300kg近くの力士を倒せといわれると至難の技に思えてくる。

 しかしここで注意してほしいことがある。
 以下にあげるのは体重の歴代ランキングの続きである。11〜30位まである。

 力士の名前に注目して欲しい。どれだけ分かるだろうか?

11位:富ノ華 222kg 
12位:大喜 221kg 
13位:藤縄 215kg
14位:徳真鵬 214kg
15位:大松田 214kg
16位:前田 213kg
17位:大空 211kg 
18位:福寿丸 210kg
19位:龍帝 210kg 
20位:福司 210kg
21位:大乃国 210kg
22位:旭光 208kg
23位:安寿 207kg
24位:諫瑞喜 206kg
25位:鶴賀 206kg
26位:高見山 205kg 
27位:高見州 205kg 
28位:玄海鵬 203kg
29位:久島海 203kg
30位:荒若 202kg

 30位まで全て200kg超えているのはさすが大相撲という気がするが、力士の名前でどれだけ判断できるだろうか。

 相撲好きなら多少見覚えがあるかもしれないが、普通の人間にはあまりなじみがないだろう。

 それもそのはずで力士人口は何百人も居る。一般人にまで覚えてもらうには、かなり出世しなければならないのだ。

 真相を明かすとこの中で幕内まで昇進できたのは8人しかいない(33位まで入れると9人)。十両まで含めても13人だ。

 要は大半は一人前とみなされる十両までも到達できていないのである。

 例えば第二位の小錦に継ぐ体重を誇る大露羅。
 身長193cmで270kgもあるのだから小錦に劣らないモンスターだ(ちなみに今の現役力士で最重量)。
 ロシアのブリヤート出身で東欧系力士としては記念すべき第一号である。

 遠い異国からやってきて、相撲という独特のしきたりの残る世界で生活したパイオニアとしての功績はあるだろうが、彼の成績は見逃せない。

 並み居る東欧系力士の中でも大露羅は最重量である。一番重い。
 だが成績は「三段目が定席」と辛口の評価を与えられてしまっている。(最高位は幕下四十三枚目)。

 彼よりも身体が軽くても昇進を重ねた他の東欧系力士(大関まで昇った琴欧州把瑠都、小結の黒海)との違いが目立つ。
 そう、皮肉にも最も体重に恵まれた大露羅が、最も成績に恵まれないのである。

 横綱に絞るともっと顕著だ。
 相撲の環境や力士の条件が現代と近い昭和以降に限定しよう。
 32代の玉錦から70代の白馬富士まで39人。

 個々の体重の平均的な記録を見ると150㎏を超えていたものは13人しかいない。
 160㎏超は7人であり、170㎏超えとなると3人(大乃国203㎏、曙232㎏、武蔵丸223㎏)で実質200㎏超である。
 つまり170〜190代は極めて少なくなり、150㎏未満が横綱では最多となる。

 身体が重いからといって必ずしも上に行けるというわけではないのだ。

 成績でもそうだ。
 確かに大柄な武蔵丸や曙は最高優勝は12回、11回と優良な成績である。
 しかし彼らより小柄な千代の富士31回、北の湖24回、大鵬32回、輪島14回、貴乃花22回、白鵬25回である。彼らに劣らない。

 朝昇龍も不祥事により引退しなければもっと記録を伸ばしたかもしれないが、体格も身長184cm、体重148㎏で歴代横綱でも中程度なのである。
 あれほど強さを誇りながら特大級の巨漢というわけではない。

 また面白いのは名横綱として歴史に名を残し、人々を沸かした力士の体格である(明治頃は平均身長の問題もあるのであえて除く)。

 昭和以降、冒頭の栃木山以外にも常陸山175cm・145㎏、双葉山179cm・135㎏、「若錦時代」を築いた初代若乃花179・107㎏、栃錦178cm・120㎏など、そこまで巨漢でない。

 当時から大柄な力士はいたのだ。
 彼らを上回る巨漢横綱も成績で見ると下回っていることも少なくない。

 横綱の世界でさえ「大きいから」「小さいから」だけでは説明がつかないのである。必ずしも体格と成績は比例しない。
(ちなみに「小さい横綱」と言われながらも名を残した千代の富士は、小結までは100㎏に満たなかったそうである)

 また現在横綱の一角を張る日馬富士も185cm、133kgである。2013年幕内最軽量だった隆の山が十両に陥落した時は、一時幕内の最軽量力士となった。
 戦後で横綱が幕内最軽量なのは千代の富士以来だという(日馬富士自身は「小さいことは言い訳にならない」と主張する)。

 また横綱同士でなく、対横綱でも面白い事実が見られる。
 前に紹介した鷲羽山北瀬海以外にも、圧巻なのが安芸乃島(175cm、155㎏)である。

 一時幕内で最低身長になったことがありながら、金星(平幕が横綱から勝利を奪うこと)の獲得数は16個と歴代最多である。
 往時は上位キラーとしての名は不動であり、実に対戦した横綱全てから勝利をもぎとっている。

 とりわけ面白いのは、史上最大の体重を誇る小錦を一番苦しめたのが安芸乃島という事だ。
 対小錦戦の通算成績は25勝10敗。まさに得意とする相手であった。実に小錦横綱昇進を阻む壁でもあった。

 他にも200kgを超えていた大乃国とも因縁がある。実に安芸乃島が入幕して初金星をとった相手であり、調子を落としていた大乃国安芸乃島に打ち破られて引退を決定した。
 ちなみに安芸乃島の現役最後の金星も新横綱になって勢いに乗る武蔵丸からで、引退間際でも対横綱戦の強者でもあった。

 ちなみに三賞の受賞者としては歴代最多の19個を誇り、この記録は今でも破られていない。

 皮肉にも小柄な安芸乃島が一番苦手とした相手は、同程度の体格の琴錦(177cm、142㎏)であった。実に9勝39敗(特定の相手との連敗記録に残る)と苦戦し、念願だった初優勝も琴錦に阻止された。また引退の原因ともなった肘のケガも対琴錦戦が原因である。

 相撲の勝負の妙について考えさせられる事例である。

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身長体重は一つの要素

 もちろん大柄でも上位力士も居るのだから、単純に懐に入れるとか小回りがきくとかいった話ではない。
 もろ差しなどは小柄で重心が安定している方が差しやすいとも言われるが、深く差せば閂や投げを極められやすいリスクもある。
 戦術的な側面から考えてもどの体格も一長一短はあり、一方的に有利とは言えない。

 また同程度の体格の勝負ではそうした身長体重による理由付けもできない。

 むしろ身長体重の数字で判断することを改めるべきかもしれない。

 相撲全体を通して次のことが言えるのではないか。
 身体の大きさは重要な要素である。しかし決定的なものではない。

 「小柄で上にいけたとしてもそれは例外であり、ごく選ばれた少数だろう」という考えはおそらく正しいだろう。しかし同じく「大柄で上にいけるのも例外であり、ごく選ばれた小数」なのである。

 新弟子検査に通るか通らないかのぎりぎりの身体で頂点近まで到達する者もいれば、逆に並外れた体形に恵まれてもパッとしないこともある。

 何百人も居る力士の中の昇進できる一握り。
 それは単純に身長や体重の大小だけで分けられない。

3
巨人力士の秘密

 最後に長身力士について付け加えておきたい。

 先に紹介した2メートルを超える高身長力士たちには、ある逸話がある。
 なんと、ほとんど取り組みを行っていない巨漢も多いのだ。

 衆目を集める「看板力士」として土俵入りだけ行ったり、巡業時のいわば宣伝要員としての役割が大きかったのである。

 そして更に注目すべき点がある。短命や病弱な者が多いことだ。

 例えば生月鯨太左衛門は享年23才。脚気か瘡毒が原因といわれる。龍門好五郎は37歳。大空武左衛門も37歳で没だ。釋迦ヶ嶽雲右エ門は27歳である。
 いくら江戸時代とはいえ早すぎる寿命である。

 明治以降も似た傾向が見られる。有名な出羽ヶ嶽は両脚の負傷に加え脊髄カリエスとなって三段目まで陥落した。

 不動岩は下半身が弱く内臓疾患に苦しめられて39歳で死去している。
 三段目ですぐに廃業した白頭山は、病気が原因で背骨が歪んでおり、実は最初から相撲部屋入門を固辞していた人材だった。

 大関まで行った大内山は成功した方だが、膝を故障し、顎が肥大して噛み合わなくなるという奇病で大関を陥落した。

 相撲に怪我はつきものながら、なぜここまで病弱な人間が多いのか。
 並の人間よりも壮健な身体を所有しているはずなのに、なぜ振るわないのだろう?

巨人症という病

 実はこうした人々は「巨人症」だった可能性が高いのだ(主に腫瘍などが原因で過剰に成長ホルモンが分泌される病気)。

 現代でも巨人症の傾向がある人は感染症や内臓疾患に陥りやすい。適切な治療を行わないと、スポーツで大成しないどころか背骨や足腰を痛め、日常生活にも支障をきたす場合もある。

 特に昔は医療技術が未熟で、まともな健康知識や抗生物質などもない。巨漢力士に病弱の影がつきまとっているのも頷ける話なのだ。

 226cm、180㎏あったいう釋迦ヶ嶽は存命中から「病人のように顔色が悪かった。目の中がよどんでいた」といった言い伝えが残ってる。
大内山の顎の病気も巨人症の人によくある「末端肥大症(身体の特定の場所だけが大きくなったり変形する症状)」であったとされる。

 つまり「巨体で強い」どころか人並みより病弱なことも少なくなかった。見かけの体格は必ずしも実際の強さと直結していなかったのだ。

 実際に相撲界では「あまりに大きい力士は大成しない。脆い」という口伝えがあったそうである。

医学的な視点

 相撲診療所の医師であった林盈六氏によると、相撲の強さには身長や体重だけでなく速筋(すばやい動作で使う、瞬発力などを司る)、遅筋(継続的な動作を行い使う、持久力などを司る)も関わってくるのではないかとしている(筋肉の量は増やせるが、質は遺伝的に決まっていてトレーニングでも変えにくいとのこと)。

 もちろん心肺機能と性格や体格なども加味されるべきとするが、相撲は通常数十秒で決着がつく。速筋が多い力士が優位な傾向があるという。

 林医師のもう一つの面白い指摘としては、たとえ体格に恵まれなくても、筋力など何か特定の抜きんでた所があれば出世していた、という点である。

 例えば小柄だった千代の富士などは握力が100kgを超えており、それがあのお手本のような見事な上手投げ(腕力、脇力、握力三拍子揃うのが必要)を生んでいたという。

 同じく入門当初は軽量に苦しんだが、「鉄の爪」とまで呼ばれた怪力で投げと寄りを得意とした出羽の花も握力は100kgを超えてり、力士としては成功して関脇まで昇った。

 他にものど輪や投げ吊りで一世を風靡し、そのパワーから「北海の白熊」とまで呼ばれた北天佑、豪快な上手投げがトレードマークだった魁皇も握力が100kgを超えていたそうである。(押し相撲中心の力士は握力はさほど鍛えられてない。50〜60程度も多いとのこと。そうした例と比べるとかなり飛びぬけている)

 また177cmで115㎏であった陸奥嵐の話も面白い。
 トラック運転手でたまたま相撲部屋を見学していてスカウトされ即決したという面白い経歴の持ち主だが、小柄なのとあごを上げて相撲をとる癖(あごをあげる力士は強くなれないとされている)があり、最初はあまり評価されていなかった。

しかしトラックの運送で鍛えたのか、背筋力が280kgを記録しており、林医師は周りの評価に反して出世するとみなしていたそうだ。

 結果は予想通り順調に入幕を達成し、関脇にまで到達した。
 その背筋力を活かした吊り出し、河津掛けで聴衆を湧かし「東北の暴れん坊」と呼ばれた。(ちなみに前にあげた小柄な関脇鷲羽山も背筋力は280kgあったという。また吊り出しと言えば「起重機」との異名を取るほどだった明武谷も、背筋力が機械の測定上限を超えるほどだったという。確実に300kg以上はあったそうで、それが関脇までなれた一因かもしれない)


 冒頭にあげた栃木山太刀山も共に怪力伝説があったのは興味深いところである。
 太刀山は「突き押しの力士は安定しない」というジンクスを打ち破り、無敵の双手突きを編み出した。
 数々の相手を土俵外に突き飛ばして再起不能にしたため、しまいには一門内でも稽古をつけてくれる相手がいなくなったという。他にも周りが動かせない500kgある砲弾を一人で軽々と運んだなどの逸話も残る。

 栃木山も似ていて、力が強すぎて取り組み相手が悲鳴をあげたとか、女性を片手で持ち上げたなどの話が残る。太刀山との勝利もこの怪力が働いたのかもしれない。

栃木山が示したもの

 実は太刀山栃木山の一戦では、太刀山が薬指を負傷していたとの説もある。この話を支持するなら伝説の勝利は幸運によるものであって、実力ではないということになる。
 本当かどうかその後の栃木山を見てみよう。

 翌場所でも順調に勝ち越して初優勝を遂げる。大関昇進も果たした。
 以後は全ての場所で優勝争いに絡み、五場所連続優勝の記録も作った。
 横綱に昇進を果たすまでに実に九回の最高優勝を果たしている。

 横綱となってからも体格はさほど変わっておらず、現代から見ると歴代横綱として最軽量を記録している。

 しかし栃木山は幕内での勝率は8割を超え、横綱在位中も9割を超えた。
 これは相撲史上ほぼ唯一と言っていい(白鵬は未定)。今もってしても簡単に破れない記録を打ち立てたのだ。
 また引退して数年後の全日本力士選手権でも現役力士たちを破って優勝するなど、実力が確かな所を示した。

 小結で大波乱を起こした平凡な体格の関取は、結果として太刀山と並ぶ名横綱となったのである。

 自身の相撲の成績によってあの一戦がまぐれではないことを証明したのだ。


エピローグ

 太刀山栃木山
 外面的には対照的な二人であるが、相撲界の「古今十傑」が選ばれる際は必ず名が上がる。「最強の横綱」候補でも常連であり、両者とも不世出の名横綱であるのは揺るがない。

 相撲の「体格」に関してこれほど明快にイメージを打ち破る答えはないと思われる。

 ともすれば相撲は大柄な人間が目立ち、安易に強さに関連付けてしまいがちだ。
 しかし相撲における「強さ」は、より複雑で多様な要素が絡んでいる。「見かけ」は一つの要素でしかなく、体重や身長だけでは語れない。

 むしろ本当の強さの源泉は外から見えない部分にあるかもしれず、そこが格闘技としての相撲の奥深さと妙味を作り出しているのかもしれない。


【検証】 相撲の強さの秘密とは? 体格の視点から

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プロローグ

 その日国技館はほぼ満員だった。
 場内は観客の興奮と熱気であふれんばかりになっている。
 ただの相撲の一戦ではない。

 1916年(大正五年)5月場所8日目。
 観客は土俵上で作られる歴史を見に来ていたのだ。

 大勢の期待と歓声を一身に浴びていたのは太刀山
 休場を含めながらも、西ノ山に負けた一敗を除けば実に五十六連勝。八場所連続で土に付かなかった記録になる。
 また西ノ山との取り組みに関しても「あれは勝ちを譲ってやったんだ」と意味深な発言をしており、もしそれが事実ならば既に百連勝を超えている。
 江戸の伝説的な力士の雷電や谷風、明治の梅ケ谷でさえ百連勝は達成していない。

 また五十六連勝だとしても記録に残る数字である。

 いったいどこまでこの連勝は続くのか。
 観客は歴史的な一瞬を目のあたりにできる幸せを味わっていた。

 土俵で対峙するは新進気鋭の栃木山
 優良な成績で入幕を果たした若手ながら、経験ではまだ劣る新小結である。

 行事の掛け声とともに軍配が上がる。
 栃木山が一足に入り込む。突き押しを得意とする太刀山は先に右を差された。
 しかし187cm、140kgの巨体を活かし、逆に栃木山に揺さぶりをかける。
 そのまま振り捨てようとするも逆に栃木山が左も差してくる。もろ差しでもみ合いになった。

 どよめきが起きたのは次の瞬間である。
 もつれた状態で押しあいとなり、競り合いの末に寄り出されたのは太刀山であった。
 土俵の内側で勝ちを踏みしめているのは栃木山

 奇跡の大横綱のあっけない陥落であった。


 一瞬の茫然自失から覚めると場内は大混乱。
 怒号と座布団が乱れ飛び、勝者の栃木山には祝儀の雨が降った。

 国技館の外でも騒ぎは飛び火し、東京中で号外が配られたという。

 伝説に残る連勝の阻止と、巨体と怪力で最強を謳われる横綱の四年ぶりの黒星。相撲史に残る大事件であったが、それだけではなかった。

 相手の栃木山にも意外性があったのだ。

 当時の栃木山は身長172cm、体重は103kg。
 一般人としてもさほど巨漢ではない。そのせいか入門当初は親方にもあまり期待されてない人材だったのだ。

 この小結ほやほやで平凡な体格の新人が、五年間で一敗の神がかり的な横綱を倒したのである。

 ただの勝利ではなかった。

1

強さを決定するもの

 相撲。
 今や世界的な知名度があり代表的な日本のスポーツ扱いになっている。
 この相撲の一般的なイメージというと何があるだろうか?

 風変わりな儀式、古風な衣装、独特の立ち会いなど様々だろうが、まず筆頭に来るのが「巨体の男たち」だろう。

 半裸なせいもあるが、数あるスポーツで相撲ほど競技者の肉体が目立つものはない。

 昭和になり時代が下るにつれ大柄な傾向は強まった。
 これは平均身長の伸びと新弟子検査の制度が確立したためであり、力士は最低でも173cm、75㎏以上が条件となったのだ。原則的にこの基準をクリアしなければならなかった。

 また「伝統の国技」が強調される割には外国人力士にも寛容であり、選りすぐりの体格や運動能力を持つ外国人が招聘され、土俵をにぎわせている。
 その外国人力士が活躍すると話題になったのが体格だった。

 一時代を築いた曙、小錦武蔵丸などは、成績だけでなく体格でも目立ち、身体的な記録も残している。こうしたことは相撲における「体格」の印象を更に強めた。

 実際に肉弾の戦いである。狭い土俵で身体をぶつけあう。素手の格闘技であり、頼るものは自分の身体のみだ。雲をつくような大男だったらそれだけで有利になりそうだ。

 「強い力士は大柄」。
 一般的にもそうしたイメージが持たれているのではないだろうか。

 相撲における強さを探っていくと必ず「体格」の問題は切り離せない。広い意味での体格が相撲における強さを決定しているのだろうか?
 身体の大小が力士の強さを決める原因か。


 実際に現場を探っていくと意外な結果が得られた。


歴代巨漢力士の身長

 相撲の歴史は長くそれこそ神話時代から続いている。
 勝敗記録だけでなく身体的なデータもそれなりに蓄積されているのである。
 伝説的な力士だと手や靴のサイズまで残るものがあるが、ここではまず身長と体重に注目してみたい。
(身長と体重は多少増減する。平均的なものや公式記録の数字を取った)

 まず相撲史上で最も身長が高かったとされるのは「明石志賀之助」である。相撲協会が初代の横綱に認定している力士だが、なんと身長は251cmである。
 今ならギネスブックに載りそうな超人だが、さすがにこれには疑問符がつく。実在はともかく身長の確証が無いのだ。

 明石志賀之助より古くなると更に記録の信ぴょう性が怪しくなる。軍記物や講談と同じで伝説と誇張に彩られていているためだ。
 時をさかのぼるほど実在そのものも疑わしくなる。記録として扱えるかは不明である。

 そこでここでは二百年超える江戸時代以降で、相撲以外の資料などでも実在が確かなものをとりあげたい。
 高身長で名を残した力士を簡単に並べる。

嘉永年間の生月鯨太左衛門 230cm(235cm説も)

天保年間の大空武左衛門 227cm

寛永年間の第36代大関、釋迦ヶ嶽雲右エ門 226cm

・文政年間の龍門好五郎 226cm

寛永年間の鬼勝象之助 221cm

天保年間の鈴鹿山鬼一郎 214cm

天明年間の九紋竜清吉 208cm


どれも2メートルを超えている。
こうした力士は富岡八幡宮などに「巨人力士身長碑」や手形が残され、他の資料でも実在が窺える。

身長の数字の正確さについて議論の余地はあっても、架空の人物では無い。

幕末から現代にかけては以下のようになる。

・不動岩三男 214cm
双葉山の露払いを担当し、蔵前国技館の幕の房は不動岩の頭にあたらないように長さが決定したとされる。

・白真弓肥太郎右衛門 210cm

ペリー来航時に親善の歓待をして、米八俵を担いで賞賛を浴びた。

・武蔵潟伊之助 209cm
元は炭焼きの仕事をしていたのを巨体を買われて相撲に入ったという。

白頭山福童 208cm
引退後は長身を活かして兵隊の格好で菓子屋の客寄せもしていたという。

・出羽ヶ嶽文治郎 207cm
数々の対戦相手を怪我に追い込んで恐れられ、昭和の力士として富岡八幡宮碑に残る。

・曙 204cm
ご存知貴乃花との名勝負でも名を残した。

・大内山平吉 203cm
土俵の屋根の房に頭が当たるので高さが変更されたという。

琴欧州 203cm 
最近の力士では一番大きいと言われていた。


また2メートルに達しなくても

双羽黒(199cm)、把瑠都(199)、大飛翔(198)大砲(197)、貴ノ浪 (197)、琴若 (196) 若ノ鵬(195)、太刀光(195)、露鵬(195)、栃乃若(195)、大起オオダチ (194) 水戸泉 (194) 魁聖(193) 男女ノ川(193)

なども高身長であった。

この辺りだと一般的観点からすると超大型である。横綱や有名力士も入っている。

過去の外国人力士ではハワイ・太平洋系の人がよく目立っていたが、曙の204cmをはじめ、巨体で広く知られた小錦(身長は187cmで、体重は275kgと史上最重量)、横綱武蔵丸(192cm、237kg)なども大柄力士である。

こうして検証していくとやはり大柄力士は目立っている。

冒頭にあげた栃木山は例外であって、やはり巨漢であることが最重要だろうか?
力士の強さは、体格に裏打ちされねばならないのだろうか?

ここでは逆の例から辿ってみたい。

第二検査出身の力士たち

 新弟子検査が確立されると一定の基準の体格は確保できても、当然規定に足りずに合格できない者も出てくる。
(検査の基準は何度か改正されたが、戦後の最低基準は身長173〜176以上、体重71〜79以上を推移し、今では年齢を問わず173cm、75kg以上に確定)
 170cmの舞の海が身長を稼ぐために頭にシリコンを埋め込んだ話は有名である。

 近年では外科的な手術などは危険でもあるし、熱意ある志願者に門戸を開くために2001年度から第二検査制度が設けられている(最低基準は身長167cm、体重67kg以上)。これによって運動能力などに秀でていれば、第一検査に不合格でも入門可能になった。

 第二検査基準の体格だとほとんど一般人とも変わらなくなってくるし、自分の方が大きい位だという人も居るだろう。

 ただここで疑問も湧いてくる。
 仮に「体格」が重要であるならば、小柄な人たちは入門できてもやっていけるのだろうか? 現代の大型力士に混じって実力を発揮せねばならないのだ。

 意欲があっても体格的なハンディがあると苦しいはずである。

 しかしこの2001年に新設された第二検査制度、前途多難で見込みがないかというと、そうでもない。

 なんと現在(2014年)で既に「関取(十両以上の力士)」も輩出しているのである。





小柄な暴れん坊たち

 磋牙司は1981年生まれの31歳。まだまだ現役として脂がのっている。
 子供の頃からの相撲好きで、中学高校と全国大会で優勝し学生横綱になった経験もある。
 同期にはその頃明徳義塾に在校していた朝青龍琴奨菊もいる。

 ただ身長があまり伸びず、入門時は第二検査規定のぎりぎり167cmだった(現在は公称166㎝)。
 入門してからは怪我に悩まされたものの、順調に幕下、十両と昇進していき2010年には入幕を遂げた。

 足の負傷による十両陥落、再入幕を繰り返しつつも、最高位は西前頭の九枚目まで上ったのである。幕下と十両でそれぞれ一回ずつ優勝も 果たしている。

 第二検査出身の中でも身長は低い方だが、それでもこれだけはやっている。

 磋牙司と大して変わらない身長の力士には豊ノ島もいる。168cmだが存在感は大きい。
 小柄でありながら、胸からまっこうぶつかり合う闘志あふれるスタイルだ。
 精神面も強く粘り腰に定評がある。

 序の口から十両まで何度も優勝を重ね、入幕を遂げてからも殊勲、敢闘、技能の三賞を九回も受賞した。
 実に最高位は関脇にまで達した。
 上位陣相手には苦労したものの、まったく刃が立たなかったわけではない。

 例えば横綱白鵬が初めて金星を渡したのは豊ノ島である。また日馬富士も二度にわたって金星を奪われている。
 また幕内で得意としている相手は、先ほど最高身長で名をあげた琴欧州である。十両時代から何度も土につかせるほど相性が良い。

 他にも琴光喜鶴竜など大関クラスも撃破した有力関脇であって、小兵でも目立った有望株であった。

 他にも173cmの益荒海(最高位、西十両5枚目)、174cmの鳰の湖(最高位、西前頭16枚目)なども活躍している。

 まだ短い歴史ながらこれだけの人物を輩出しているのだ。むしろ前途は洋洋としており将来的にも大いに期待がもてそうである。


昔から居た小柄な華

 実は第二検査出身以外にも制限身長ぎりぎりの力士はそれなりに見られていたのだ。

 舞の海は小結まで行ったが、175cmの維新力は闘志あふれる相撲で幕下時代の曙や若乃花にも勝利し、一時西十両筆頭まで上った(現在はプロレスに転向)。

 常ノ山も新弟子検査の時には175cmで体重が75kgしかなかったという。そこで事前にたらふくご飯と水を詰め込み、まわしに鉛を仕込むという裏技で突破した。

 入門時は身長体重ともに不足気味で苦労したものの、順調に出世を重ねて一時は東前頭2枚目にまでのぼった。つまり前頭でも筆頭に近い三役相当の地位である。
技能賞も2回を受けている。

 同じく身長が175cmだった鷲羽山北瀬海などもともに関脇にまで昇進し、三賞と優勝の経験者だ。

 意外にそこまで身長がなくても力士としては強者なのである。

出世した小兵力士は例外か?

 ここで疑問に思う人もいるかもしれない。

「確かにその人たちは結果を残しているけど例外じゃ? それにあまり上位にはいけてないじゃないか」

 などと。

 ここで二人の例をあげよう。
 現在は年寄りとして審判委員長などを務める朝日山親方。
 現役時代の大受関である。

 中学時代に相撲部屋に誘われて入門し、長い相撲歴を誇る。
 若い時には思うように身長が伸びず、新弟子検査も突破できるか危うい状態であった。

 兄弟子や周囲と相談した結果、頭にシリコンを埋め込むという前代未聞の突破口を考えた出した(舞の海のやり方はこの大受に習ったもの)。
 結果として現役時代は177cmまで伸びたが、それでもあまり長身ではない。

 だが逆に成績は伸びに伸びた。
 徹底した押し相撲のスタイルで次々に昇進をものにし、最後は大関にまで到達したのである。

 幕内では名横綱大鵬を破るという金星をあげ、上位キラーとして名をとどろかせた。殊勲賞を4回、敢闘賞1回、技能賞6回獲得している。
 大関時代は怪我に見舞われて思うような相撲がとれず、五場所で陥落したものの力士としては立派な成績である。

 もう一人が旭国だ。
 現役時は174cm。こちらも体格だけ見ればプロの力士としてやっていけるか危ぶまれるレベルだ。

 実際に新弟子検査に四回も挑戦しては不合格になり、しまいには髷をカチカチに盛り上げ、兄弟子に頭を殴ってもらってこぶを作り、検査係にお目こぼししてもらって合格したというエピソードがある。

 それでも入門してからは抜群の冴えをみせた。
 闘志あふれるしつこい取り組みで「ピラニア」とのあだ名を取り、幕下や十両で優勝を飾った。

 酒の飲みすぎですい臓の故障に苦しみながらも、「闘魂」という言葉を好み、熱の入った相撲は大関の地位をももたらした。
 一時は上位力士の間で最高優勝争いにも参加するほどで、綱取りにも期待がかかったが、惜しくもそこまでは及ばなかった。

 それでも両者とも大関まで務め上げるという立派な成績を誇る。
 並の力士では到達できる地位ではないのである。


 考えてみよう。
 確かに今まであげた小兵力士には「平幕」程度も多い。しかし「全体」を見てみればいい。

 相撲取りの総数は時代によって増減があるが、前相撲は抜きにしても幕内、十両、幕下、三段目、序二段、序の口の全てを合わせて千人を超えることもある。

 最近は相撲人気に陰りが出て減少傾向だが、それでも700人近くの数字はキープされている。

 プロ力士の各ステージで一人前に扱われるのは「十両」からである。それ以下は「力士養成員」扱いとなる。

 「十両」は元は「幕下」に含まれていたが、明治の給料制の導入とともに上位十人が独立して成立した。いわば準幕内である。

 十両力士になると手当て以外にもかなりの額の月給と退職金がもらえ、「○○関」と正式に呼ばれるようになる。
 年寄りを襲名する資格も発生してくるし、いわば十両からが一人前の「関取」である。

 ひるがえって力士全体でどこまでが十両・幕内に到達できるか。

 時代によって増減はあるが、幕内の定員は四十人前後、十両は三十人前後である。
 幕内と十両を合わせても全体の一割もいかない。

 つまり十両になった時点で、相撲界ではそこそこエリートでありピラミッドの頂点近くなのである。

 ここであげた小兵力士たちは、たとえ横綱大関クラスでなくても頂点近くに達している事実を忘れてはならないだろう。
 彼らよりはるかに身体的に恵まれながら脱落する者も大勢いるのである。

↓以下その二に続く

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【メモ】 面白い問題解決法



世の中には様々な問題解決法が提唱されている。
やれ論理的思考だのマトリックスを使うだのバラエティに富んでいる。

問題は人間が生きてる限り発生してくるし、問題を上手く解決する方法の需要も途切れないのかもしれない。


そんな中で面白いと思った解決方法を例を一つ。

昔とある町で地区を二つに分かつ川に橋がかけられた。
片方の町名は魚町。もう一つは京町。

橋は二つの町の中央を渡る。どちらの物とも言いがたい。
橋の名前をどうするかにあたって二つの町の住民達が紛糾した。
それぞれが自分らの側にちなんで「京橋」とつけろ、いや「魚橋」にしろ、ともめたのだ。

両方の町に関わることだ。どっちを選んでも角が立つ。
役人も一方に肩入れはできず、大もめにもめたという。


もしここで自分が当事者で、解決を図らなければならないとなったらどうするだろう?

問題は感情や人間心理に関わる。論理的思考などで論理的に解決しにくい。
簡単に正誤がつかないからだ。

ここで一人の賢い人間が出てきた。
ビジネススクールで問題解決スキルを学んだわけでもなく、大学教育も受けていない。
すべては自分の頭で解決を図る必要がある。


その解決方法は……なんと両方の名前を取って「鯨橋」とするというものだった。


一休さんか!と突っ込みたくなる感じもあるが、面白い。
もし本当にあった話なら頭が柔らかい。

しかしこれは実話なのだろうか? 小話にでもありそうな気がする。

調べてみるとどうも九州辺りに元ネタがありそうなのだ。町の名前から江戸時代の上方か江戸辺りの話かと思っていたが、唐津の町という

説もあるそうで、いつか町史にあたってみたい。

これとは別に、近所の「福岡」と「博多」の争いなら事実である。
有名なので知ってる人も多いだろうが、「博多」は那珂川の東側で商人の町、「福岡」はその西側、福岡城のある方で武士の町とされる。
(「福岡」は当地を治めた黒田長政の故郷の地名からという)

明治に市制が敷かれる際に「福岡」にするか「博多」にするかで現地は大もめともめた。
一票差で「福岡」に決定したものの、痛み分けで駅名は「博多」に譲って今に至るとの話。


「鯨橋」のようにスマートでユーモアのある解決とはいかないが、現実的な妥協の結果とは言える。

この辺の争いが「鯨橋」の逸話と関連付けられたのかもしれない。

イノベーションの例から分かること

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前回にあげた四つのイノベーション
意外に日本の、それも近しい事柄で革新がなされている。
面白く感じた人もいるかもしれない。

ここでもう一歩踏み込みたい。

今ではイノベーションを目指せとの掛け声は大きい。官民一体となる勢いだ。
自分も同じような偉業を成し遂げたいという人も多いはずだ。

それではなぜこの人たちはそこまで到達できたのだろう?
同じような立場の人間はそれこそ山ほど居たのである。

多くの人はより恵まれた機会がありながら、それをものにすることができなかった。
そこにあったのは大きな変化をもたらす貴重なチャンスであり、可能性であったにもかかわらず。

世の中の他のイノベーションを見ても同じだ。
成功できたからといって、特に学歴が高かったとか、事業資金に恵まれたいたわけでもない。

いったいその違いは何だったのだろうか?


飛躍を成し遂げた人々には大きな共通点がある。

「他の人と同じものを見ながら、特別なことに気づいている」
「同じ状況にいながら、その人だけは特別な何かを得ている」

これである。
好奇心だけではない。野次馬根性に似たものは誰にでもあるからだ。

やれた人はその背後に潜む大切なことに気づいたり、自分の持っている問題意識につなげることができている。

すべてはそこから出発している。
 
偶然に何かにめぐり合っておきながらその一瞬を逃していない。
なんでもないように見えることから、貴重な教訓を引き出している。

学校時代の成績や生まれつきの能力でもない。
常人に到達できない特殊な何かや高度スキルでもない。

それを突き詰めていくと「内面のあり方」である。

繰り返すがイノベーションを行えた人は常に自分の問題を意識していた。
何らかの意図するものを抱えていた。

だからこそ仕事を離れていてたまたま何かにめぐりあっても、それの持つ意味合いに気付けた。敏感に反応し、問題解決の鍵として自分のものにできて取り込めたのである。

これが出発点であったと思う。
それが無かったらどれだけ資金が豊富だろうが、人材が居ようが彼らのイノベーションは不可能だったのではないだろうか。